専門的な勉強の意味
ひょんなことがきっかけで
以前、「『学歴』って何だろう。」で受験勉強や大学生活で身に着ける「学び続けるスタンス」について考えた。しかし、一方で学ぶスタイルや型ではなく、専門的な知識にどのような価値があるのだろうという疑問も残っていた。モヤモヤをずっと抱えていたが、ひょんなことがきっかけで、ささいな気づきを得られた。
久しぶりに旧知の友にあったけど、依然と比べて話が合わなくなるということは、よくあることみたいだ。楽しかったと思いながら、家路につくと、少しの違和感が残っているあの感覚だ。いろいろな大人にこの話をすると「みんな成長したんだよ」と一笑に付される。宙ぶらりんの感情は、毎回残ったままだ。
「同じものを見ているようで、違うものを見ている感覚」
「原因は何だろう」
人は、自分と同じ感覚を共有できる人間とに親しみを感じ、時間を共有する傾向が高い。つまり、グループや集団を形成するポイントは、「似ているかどうか」のようだ。「俺たちは~」「私たちは~」のような帰属意識は、アイデンティティと安心感を得るうえで欠かせない。であるならば、もともと「似たもの同士」だったはずだ。
それが、なぜだろう。ターニングポイントはどこだったのだろう。あの時の感覚をなんで共有できないのだろう。
専門的すぎる勉強の価値について
高校卒業後、大学に進学する人間もいれば、そのまま就職する人間もいる。
大学に進学した人間の一部は、専門性の高い学問を学びながら、世の中を動かす論理を静観する時間を取れる。(もちろん、全員とは言えないが。)もしかしたら、これが価値観の変化の大きな要因かもしれない、と思った。
専門的な学問は社会に出て働くうえで、実用的な価値をもたらすものではない。でも、独自の「視座の形成」にものすごく大きな役割を果たしている。ここでいう視座は、一つの事柄・出来事を理解する際に、「俯瞰して理解する能力」や「原因を掘り下げる能力」、そして「先見性」につながる。
「同じものを見ているようで、違うものを見ている感覚」の原因はこれか?
これが、何か共通の話題で盛り上がったときに感じた違和感の原因かもしれない。
って考えると大学の勉強って意外と意味があるんじゃないか?
高い視座から物事をとらえる能力は、難しい問題・課題解決をするうえで欠かせない能力だ。
専門的な知識は個人の経験と結びつき、独自の視座を形成する
↓
独自の視座や視点が問題解決の方法の多様性・選択しを豊富にする
至極当然なことに気が付いたのだが、自分なりのプロセスで考え、気づけたため妙に納得することができた。
全然関係のない話題から飛躍しすぎた連想をしたことにより、斬新な気づきを得られたような気がした。
今度は、「専門的な知識を応用して、考えられる人とそうでない人の違いって何だろう」という疑問について考えてみます。
今日はそんなところです。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
ロハスごりら