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「自分に自信がなかった人」が「自分に自信がない人」に向けて発信します。 ■就活■自分探しではなく、自分づくり■心理学/教育■おすすめ本紹介 4月から働きます。

自分が嫌いで仕方ない人へ

就活で自分が嫌いになった
今、就活をしている人や就活を経験をしている人は、就職活動に対してどのような感想を持っているのだろう。

僕は、物凄く悩んだ。就職活動を通して、自分が嫌いになった。

なぜなら、自分のモノサシを持って生きていなかったから。

他人が良いと評価するものしか価値を感じられない、そんな人がいると思う。見栄や名誉のために生き、自分が良いと思う生き方を持っていない人だ。

僕は、そんな大人になりたくないと昔から思っていた。でも、気づいたらそのような大人に少しずつ近づいていた。何となく周りの評価や流行に流される生き方や価値観を否定する。その割には、自分の望みすら語ることが出来ない。

僕は、人が「良い」と言う物や職業、生き方を心の底から「良い!」と思うことは少ない。
ブランド物やインスタ映えする料理のどこが良いのかわからない。でも、人が良いと思っているものを否定するほど、自分が何を望んでいるのかもわかっていない。

「これじゃ、人と違う何かが好きなただのナルシストではないか。」

そんな自分が嫌いで嫌いで仕方なかった。

就活もまったく同じ。自分が本当に望んでいる生き方がわからない。

ただ、皆が望んでいる大手企業で働く生き方に全くワクワクしていないことは分かっていた。周りのみんなに流され、就活をしている自分は相変わらず好きになれない。でも、道を外れるほど能力もビジョンもない。
情けない自分が見ていたその頃の景色は灰色の世界だったと思う。

何に悩み、何を考えたか、それが自分らしさのヒント
それでも何となく、就活をして何となく人生を決めることが不安だった。何を信じ生きていくべきかわからなかった。偏差値とか優秀とか、それを手に入れるために生きてきたわけじゃない。人を幸せにし、自分も幸せになるために生きるんじゃないのか。幸せになるためのヒントは自分の中にしかない。他の誰かが教えてくれるものではない。幸せになるためには、自分を知るしかないという当たり前のことに気がついた。

何もないはずの自分も、何かを感じ、何かに悩み、何かを考えている。そしてそれは他の誰とも違うもの。
僕の場合、人、生き方、成長、ここらへんにヒントがありそうだと思った。

ちょっとだけ僕の話
人の成長に関わる仕事がしたいと考えても、学校の先生くらいしか思いつかなかった。でも、学校の先生にはなりたくない。学校教育の外で学び、身につけたモノサシこそが個性を育てる。モノサシは価値観とも言える。その価値観が社会の中で自立して生きていくためには、大切だと思っている。学校の勉強や部活の成績、先生受けがいいかどうかだけで生徒をはかりたくない。そんな価値観を押し付けたくない。別に教師全員がそんな大人だとは思ってないけど、自分は学校の雰囲気に呑まれてそんな「嫌な大人」になってしまいそうに思えた。

だから、色んな場所に足を踏み入れ、色んな活動に参加し、色んな出会いを経験した。様々な人の生き様に感化されたり、少しだけ落胆したりもした。
そこで、自分の無力さを嫌なくらいに痛感した。

無力さを痛感したからこそ、人と出会い人から学び続けることは止めてはいけないと思った。

で、何になろう。
何も知らない僕にできることはあるのだろうか。
だったらいっそのこと色んな大人と出会える「営業の仕事」をした方が良いのかも。人を雇い、育てることの大変さ、組織を活性化するための知恵、雇われる側の苦悩や本音。それを知ることで働くことや人との関わりの本質を感じられるはずだ。

人は社会との関係でアイデンティティを形成する。社会との密接なか関わりは、仕事の中で経験する。だから仕事は人のアイデンティティの形成に物凄く大きな影響を与える。働く個人の幸せと組織の形成に関わり、社会の中の個人の本質を自分の言葉で語れるようになった時、僕は自分が思う本当に大切なことを伝えられるのだと思う。

何年かぶりに心の底から望む目標を見つけられたようなきた。

行動し、人と出会い、刺激をうける
自分なりのモノサシを持って、納得して自分の人生を作っていくためには、どうすれば良いのだろう。

多分、遠回りをすることだと思う。効率的に賢く失敗しないように生きようとしたら、「自分らしい」生き方には一生たどり着かない。

僕は遠回りして、社会人になった。この選択が正解だったかどうかはわからない。正解にしていくしかない。

遠回りして分かったことは、色んな人と出会い刺激を受け、感情を言葉にしていくことを愚直にやるしかないと言うこと。そういうプロセスを踏んで、やっと「その人だからこそ伝えられること」が出来てくる。それさえ明確になれば、自分が果たすべき使命を得たようなものだと思う。使命こそ人生の意義を感じるために必要なもの。そのためにも行動→感化→内省→行動を繰り返していく。

何となく生きていては、何となく流されて生きて人生が終わってしまう。
「何となく」は本当に怖い。
みんなの評価軸で自分の人生を決めていては、本当の幸せは手に入れられない。いつも誰かの幸せと自分の幸せを比べてしまうようになる。
そして、「とにかく自分は人と違うマン」にならないためにも自分を知り、色んな出会いに感化されよう。世の中には魅力的な大人がたくさんいる。遠回りしなければ、魅力的な大人を知ることすらなかった。それは、100万円のワインを知らずに、500円のワインだけで満足するものだと思う。本当に良いものを知らなければ、何が理想かはわからない。だから色んなものから刺激を受けなければいけない。ロールモデルのサンプルを増やすことで、本当に納得のいく選択を選べると思う。これからも、出会いと学びを大切に生きていきたい。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

自分が嫌いで仕方ない人へ

就活で自分が嫌いになった
今、就活をしている人や就活を経験をしている人は、就職活動に対してどのような感想を持っているのだろう。

僕は、物凄く悩んだ。就職活動を通して、自分が嫌いになった。

なぜなら、自分のモノサシを持って生きていなかったから。

他人が良いと評価するものしか価値を感じられない、そんな人がいると思う。見栄や名誉のために生き、自分が良いと思う生き方を持っていない人だ。

僕は、そんな大人になりたくないと昔から思っていた。でも、気づいたらそのような大人に少しずつ近づいていた。何となく周りの評価や流行に流される生き方や価値観を否定する。その割には、自分の望みすら語ることが出来ない。

僕は、人が「良い」と言う物や職業、生き方を心の底から「良い!」と思うことは少ない。
ブランド物やインスタ映えする料理のどこが良いのかわからない。でも、人が良いと思っているものを否定するほど、自分が何を望んでいるのかもわかっていない。

「これじゃ、人と違う何かが好きなただのナルシストではないか。」

そんな自分が嫌いで嫌いで仕方なかった。

就活もまったく同じ。自分が本当に望んでいる生き方がわからない。

ただ、皆が望んでいる大手企業で働く生き方に全くワクワクしていないことは分かっていた。周りのみんなに流され、就活をしている自分は相変わらず好きになれない。でも、道を外れるほど能力もビジョンもない。
情けない自分が見ていたその頃の景色は灰色の世界だったと思う。

何に悩み、何を考えたか、それが自分らしさのヒント
それでも何となく、就活をして何となく人生を決めることが不安だった。何を信じ生きていくべきかわからなかった。偏差値とか優秀とか、それを手に入れるために生きてきたわけじゃない。人を幸せにし、自分も幸せになるために生きるんじゃないのか。幸せになるためのヒントは自分の中にしかない。他の誰かが教えてくれるものではない。幸せになるためには、自分を知るしかないという当たり前のことに気がついた。

何もないはずの自分も、何かを感じ、何かに悩み、何かを考えている。そしてそれは他の誰とも違うもの。
僕の場合、人、生き方、成長、ここらへんにヒントがありそうだと思った。

ちょっとだけ僕の話
人の成長に関わる仕事がしたいと考えても、学校の先生くらいしか思いつかなかった。でも、学校の先生にはなりたくない。学校教育の外で学び、身につけたモノサシこそが個性を育てる。モノサシは価値観とも言える。その価値観が社会の中で自立して生きていくためには、大切だと思っている。学校の勉強や部活の成績、先生受けがいいかどうかだけで生徒をはかりたくない。そんな価値観を押し付けたくない。別に教師全員がそんな大人だとは思ってないけど、自分は学校の雰囲気に呑まれてそんな「嫌な大人」になってしまいそうに思えた。

だから、色んな場所に足を踏み入れ、色んな活動に参加し、色んな出会いを経験した。様々な人の生き様に感化されたり、少しだけ落胆したりもした。
そこで、自分の無力さを嫌なくらいに痛感した。

無力さを痛感したからこそ、人と出会い人から学び続けることは止めてはいけないと思った。

で、何になろう。
何も知らない僕にできることはあるのだろうか。
だったらいっそのこと色んな大人と出会える「営業の仕事」をした方が良いのかも。人を雇い、育てることの大変さ、組織を活性化するための知恵、雇われる側の苦悩や本音。それを知ることで働くことや人との関わりの本質を感じられるはずだ。

人は社会との関係でアイデンティティを形成する。社会との密接なか関わりは、仕事の中で経験する。だから仕事は人のアイデンティティの形成に物凄く大きな影響を与える。働く個人の幸せと組織の形成に関わり、社会の中の個人の本質を自分の言葉で語れるようになった時、僕は自分が思う本当に大切なことを伝えられるのだと思う。

何年かぶりに心の底から望む目標を見つけられたようなきた。

行動し、人と出会い、刺激をうける
自分なりのモノサシを持って、納得して自分の人生を作っていくためには、どうすれば良いのだろう。

多分、遠回りをすることだと思う。効率的に賢く失敗しないように生きようとしたら、「自分らしい」生き方には一生たどり着かない。

僕は遠回りして、社会人になった。この選択が正解だったかどうかはわからない。正解にしていくしかない。

遠回りして分かったことは、色んな人と出会い刺激を受け、感情を言葉にしていくことを愚直にやるしかないと言うこと。そういうプロセスを踏んで、やっと「その人だからこそ伝えられること」が出来てくる。それさえ明確になれば、自分が果たすべき使命を得たようなものだと思う。使命こそ人生の意義を感じるために必要なもの。そのためにも行動→感化→内省→行動を繰り返していく。

何となく生きていては、何となく流されて生きて人生が終わってしまう。
「何となく」は本当に怖い。
みんなの評価軸で自分の人生を決めていては、本当の幸せは手に入れられない。いつも誰かの幸せと自分の幸せを比べてしまうようになる。
そして、「とにかく自分は人と違うマン」にならないためにも自分を知り、色んな出会いに感化されよう。世の中には魅力的な大人がたくさんいる。遠回りしなければ、魅力的な大人を知ることすらなかった。それは、100万円のワインを知らずに、500円のワインだけで満足するものだと思う。本当に良いものを知らなければ、何が理想かはわからない。だから色んなものから刺激を受けなければいけない。ロールモデルのサンプルを増やすことで、本当に納得のいく選択を選べると思う。これからも、出会いと学びを大切に生きていきたい。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

納得をして生きていく

就職をして1年目の友人たちの中にちらほらと転職を考える人が出てきた。
その理由は極めて曖昧だ。
「なんか違うんだよね。」
「このままじゃいけない感じがする。」
深く掘り下げようとすると尋問になりそうなので、それ以上は聞かない。確実に言えるのは、漠然とした不安と何となく意思決定をした後悔から転職を考えているということ。

ある意味では、非常に危うい状態だ。
はたから見ると「底なし草」のようにふわふわとしている。

自分の興味を掘り下げたり、情熱を傾ける分野を持っている人が、覚悟を持って再チャレンジするのと違う。覚悟がないのだ。
そんな感じだと、また同じことを繰り返してしまう。

 

転職というものが当たり前になってしまった世の中で、それを逃げに使ってしまうことも多々あると思う。個人的には、仕事が苦痛なのであれば逃げるべきだと思う。が、何となく転職する人はその何となくを繰り返す。そして、その何となくは「幸せ」にはつながらない。

そんな人達は、自分には何もないと思っているかもしれない。
自分には明確な強みやスキルはないと思っているかもしれない。
好きな仕事などあるはずないと思っているかもしれない。

そんな人が、漠然とした不安を払拭するためには、どうしたらよいのだろうか。

僕は、自分の過去に答えがあると思う。
今の自分を形作っているのは、これまでの過去だ。
その過去の中で自分が経験した不条理や忘れられないような悔しさはないだろうか?
そういった「負の感情」は人を強くしてくれると思う。
忘れられないような悔しさや不条理はその人にとっての生きるテーマになる。それは、人にエネルギーを与え、行動へと駆り立てる。目の前の取り組みに「自分が」関わることに対して「意義」を感じる。


なるほど、そうやって「これでいいんだ」と納得するのか。
僕も、いろいろと悩み、少しだけ遠回りをした。でも、その分だけ納得をして前に勧める気がする。もし、困り果ててしまったら、自分を知ることから始めてみてはどうだろう。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

主体的に生きる

はじめに

noteを毎日更新し始めて1か月が経ちました。この1か月間、自分の思考をまとめて、わかりやすく伝えることの面白さを改めて実感することが出来ました。今回は、自分自身の記事を振り返り、改めて自分が伝えたかったことを整理したいと思います。

後悔から学び、後輩に学びを伝えたいという思い

ザックリいうと、自分を突き動かした思いは、これに尽きると思う。じゃないと、文章を書くことが苦手な自分が1か月もnoteを続けることなんて出来ない。(笑)

伝えたい思いを、ザックリと整理すると、
自分の人生は自分で決めるという「主体的な」姿勢の大切さ
主体性を支えるための自信の大切さ
と言える。

さらに言うと、自分自身の後悔や経験から前述のスタンスの大切さを痛感したと言える。

じゃあ、どんな後悔をしたか。それは、


臆病になりすぎたということ。


臆病になることは、様々なチャンスや出会いを不意にしてしまうことになる。そんなことにも気づかずに、無為に時間を過ごしてしまった。
だから、同じ過ちを繰り返す人を1人でも減らしたい、という思いでこの文章を書いている。
臆病でチャレンジできなかった後悔を防ぐために、原因の究明と生意気ながら自分なりのアドバイスをまとめたい。

まずは、臆病の原因についてザックリと考える。

臆病の原因

臆病な姿勢の原因は、ザックリ分けるとこんな感じだと思う。

①根本的な自信の欠如
②主体性の欠如

自信は、「知らない世界を見てみよう、知ってみよう、飛び込んでみよう」という行動の源泉だ。これは、好奇心とはちょっと違う。何かに関心を持つ好奇心があっても、自信がなければ行動にブレーキをかけてしまう。
行動する学生は、「自信」からくる「自己効力感」をしっかりと信じれている。自分が何か変化を起こそうというスタンスが自然と生まれるのだ。何をするにしても自信は、どんな困難からも自分を守ってくれるものだと思う。(自信のについてたくさん書いているので、読んでみてください。)

主体性が問われるということ

自信について考えたので、今度は主体性について。
自信がないと一歩を踏み出せないことについては、良く触れられる。
でも、自信はあっても主体性がなければ困難を乗り越えたり、何かを達成できないと思っている。だから個人的には、自信と同じくらい主体性が大切だと思う。
その理由は、主体性という言葉の意味を知ればイメージできる。

主体性とは、

自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動する態度や性質。 「 -をもって行動する」

とりあえず、何かに片足を突っ込んでみたとして、何かを知ることはできても、何かを成し遂げることはできない
何かを深めたり、達成するためにはある程度の独自性が問われてくる。そして、その独自性の基本は主体的な姿勢から来ると感じている。

ここでポイントが2つある。
1つは、自信と主体性はダブる部分が多いということ。自信があるから、主体的に関わろうとする意識が芽生える。
2つ目は、自信があったとしても主体性がない場合があるということ。行動しまくっても、「自分の意志・判断がなければ」主体性があるとは言えないのだ。

個人的な話

大学の生活は主体性を身につけるのに最適な時期だと思う。
とは言え、僕は、大学の自由で主体性が問われる環境に馴染めなかった。
大学入学以前の自分は、部活も勉強もそれなりに頑張る「真面目」で「努力家」な生徒だったように思う。例にもれず、受験勉強もやり抜き、第一志望の大学に入学。オレンジデイズみたいな生活を夢見て(ちょっと古いかも)、田舎から東京へ飛び出した。

言われたことをしっかりやる。例えば、宿題は期限を守って提出できる。でも、宿題の問題を解いていても、こなすだけで疑問を大切にしていなかった。宿題を前もって早めに終わらせる「自主性」はあっても、問いを立て、自分から探究するような「主体性」がなかった。文字通り、主体性がない生徒。そんな僕だから「主体性」が問われる生活に適応できなかったのだと思う。

主体性のヒント

主体性、主体性と書いていて頭がおかしくなりそうだが、最後に主体的に取り組める分野や活動をどうやったら見つけられるかについて書いてみたい。「主体的になる」と言うと釈然としない。でも、主体的に取り組める活動や時間を増やすというと具体的に何をするべきか想像しやすい。

まず思い浮かぶのは、気づいたら考えてしまうような自分の好きなことを探すこと。それこそ、自分が前のめりで取り組めることだ。
とはいえ、好きなことがない。そんな人も多いと思う。
僕もそのことで悩んだので、熱中できることがなくて虚無感に襲われる気持ちが痛いほどわかる。

そんな人が、ジブンゴトで取り組めることは、自分自身の「負の体験」に隠されていると思う。


「負の体験」や「負の感情」は自分の人生に大きな影響を与えている。形作っていると言っても良い。自分に影響を与える分野に関わることは使命感や意義を感じやすい。なぜ自分が「それ」に取り組むのかのストーリーを感じられるからだ。自分の人生の物語を感じると、アイデンティティが強化される。

 

最後に

今回は、主体的に生きるヒントについて絞って文章を書きました。長くなりそうなので、前編・後編に分けたいと思います。次は、主体的な意思決定・人生選択について書いていくつもりです。



最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

貢献感が自信を育てる


いつでも自分は変われるんだ、という認識は安心感につながる。安心感は自己受容につながる。自分を受け入れられるということは、自分を好きになれるということだと思う。少しずつ自分は変わってきたし、きっとこれからも変わっていけるというニュートラルな自己評価を大切にしよう。他者の評価より内面の変化と成長を重視できるようになれば、もう以前のような「自信のない自分」とは、違っているはず。

上記の記事で、「自己受容」と「自己評価」の大切さについて考えた。「ダメな」自分を受け入れることで、自分を変えていくスタート地点に立てると思っている。

しかし、これがものすごく難しい。なぜなら、自分を変えたいと思っている人ほど、心のどこかで「本当の自分はこんなんじゃない」と思っているし、現状の「ダメな」自分を受け入れず、否定・嫌悪することで満足している。そして、本人はそのことに気付いていない。「ダメな」自分を受け入れなければ、改善点に目がいかないのだ。

自分を受け入れるためには

とはいえ、ありのままの自分を受け入れることは難しい。
どうすれば、現状の自分を受け入れ、好きになることが出来るだろう。
何か具体的な手段はないだろうか?

僕は、誰かに自分のリソースを分け与えることが一つの解決策になると思っている。

これは、メンタリストのDaiGoさんがニコニコ動画でおっしゃっていた内容からヒントを得て実践してしていることである。詳しくは、ニコニコ動画の中の「556円で始める投資~少額でも幸せ 投資の科学」を見てほしい。

その話から僕が学び、実践していることは以下の2つだ。

NPOなどの第3セクターの中で、自分の価値観や考え方に合った事業に対して、自主的(自己選択)で投資・寄付する。(少額で問題なし!!)

・寄付先で働いている人達に節目節目で連絡をとることで、つながりを大切にする。

たったこれだけだ。これからは、投資先をベンチャーやスタートアップの企業に広げたいと思っている。(もちろん、お金がないので、小額から!笑)

ここで、大切なことは寄付や投資をたくさんしましょう!という話ではないということ。「自分だからこそ価値を感じること」に対して、自分のリソースを分け与えることで「自分は正しいことをしていて、誰かから必要とされている」と心の底から思えることである。

メンタリストのDaiGoさんは、
・自信がない人は、行動を起こすときに『失敗』に過剰に反応しやすい。
・自信がない人は、失敗することで、恥ずかしい思いをするのではないかと思っていることが多い。

と言っていた。だから、自己選択で誰かに自分のリソースを与えることは、「誰かから必要とされている自分は、恥ずかしくも何もない」と思えることにつながるのだ。

これは自信のない人が、自分を受け入れ、好きになるのにさいてきな方法ではないか?

誰かに何かを分け与え、つながりを強化する。日常の些細なことからでいい。古き良き時代の当たり前をもう一度見直してみようと思った。


最後まで読んで下さり、ありがとうございました。    

共感力ってなんだろう?

「共感力」という曖昧な言葉

小さい頃から、相手に合わせることを「共感」だと勘違いしていた。でも、それは共感ではなく、調和だった。
改めて調べてみると「相手の気持ちを想像する」「相手の気持ちを否定しない、受け入れる」みたいな説明がある。
何となくふんわりとした印象をうける。わかったようで、なんとなく腑に落ちない。

実際の自分の経験から考えてみる。
自分とは違う誰かの、考えていることが想像できたこと。「多分、この人はこう思っているんだろうな」とイメージ出来たこと。その人と同じ立場に立っているかのように、感情の変化を感じる、あの感覚。
何かしら共通点がないだろうか?

自分の感情を整理できていなければ、人の気持ちも理解できない

 

インナーパーソナリティという言葉がある。自分の中にいくつものキャラクターが存在していることを意味する。このキャラクターを自分自身がしっかりと認識できていると人の気持ちも手に取るようにわかってくる。
臆病な自分。見栄っ張りな自分。批評家に近い自分。繊細な自分。いろんな自分が混在して、一つの人格が成り立っている。
そして、人格を形成している、いくつかのキャラクターが人に対する共感に影響を与えるのではないかと思う。誰かの気持ちを想像するとき、自分だったら、どう思うだろう?と過去の経験を通して実感した自分の気持ちを想起すると思う。

それが、「共感」なのではないか。

だとすると、自分の感情に向き合えなかったり、気持ちを整理できていない人は、人の気持ちを理解できないのではないか?
ダメな自分に目を背けたり、冷静に、客観的に自分を見つめられないと、人に対する洞察能力も下がる。

大切な誰かの気持ちを理解するために、まずは自分自身にしっかりと向き合わなくてはいけない。

そんな物思いにふけた3月下旬の夜でした。


最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

誇りを持って生きるということ

「私は自分のことが嫌いです。でも、本当に幸せです。」
こんな人はいないと思う。

イキイキと毎日の生活を送るうえで「自分を好きでいる」ということは欠かせない。どんなにお金があっても、どんなに地位と名誉があっても幸せになれない人がいる。その人は、信頼関係に基づく豊かな人間関係がなかったり、根本の部分で自分を受け入れていられないのだろう。


では、本当に自分を好きになるためには、何を意識すればいいのだろうか。
ダメな自分を受け入れる、いわゆる「自己受容」は、確かに大切だ。でも、これは、「自分を好きになるためのスタート」に過ぎないと思う。自己受容を意識するだけでは、ただの甘ちゃんになってしまう。
ここで言いたいことは「努力できないヤツは駄目人間だ」とかそういう話ではない。「成長」とか「好きなことを仕事に」とか「興味・関心に対して純粋に多動できる人間を目指そう」とかでもない。

自己受容に先にあるもの

弱さや駄目さを受け入れる自己受容の先には何があるのか。自分を受け入れることで純粋な気持ちに気付けるはずだ。自分の人生を通して主体的に取り組めること(ライフワーク)を見つけよう。
ささやかなことでいい。「成長」とか「努力」とか「忍耐」とかどうでもいい。そんなものと幸せは関係ない。重要なことは、自分の人生のストーリー性だ。さらに言うと自分の人生の物語と「負の感情」や自分のコンプレックスは密接に関係している。

主体的に取り組めるライフワークを持つと、自分の人生に誇りを持つことにつながる。ライフワークを通して、自身のアイデンティティが強化され、院生に対する意義感を強く感じられるようになる。「自分はこれのために生きているんだ」という思いが明確だと、日常に張り合いが出てくる。力強く生きようとしなくても、イキイキとしていられる。別にライフワークを生活の糧、いわゆる「仕事」にしなくても良い。むしろ、大切にしたいことは、しごとにしないほうが良いと個人的には思っている。利益を上げるために、組織にコミットすることは、往々にして自分の「信念」とぶつかることが多い。自己矛盾を抱えていると、自分に対する誇りと幸福度が下がる。(詳しくは、以下の記事に書いてあります。)

ささやかな日常の一部分に自分のライフワークを取り入れればいいじゃないか。自分の人生のストーリーに関連することがライフワークになる。純粋な使命感を持って取り組めるので、主体性が出てくる。誰からも強制されることなく、誰に気を遣うこともなく、ピュアな気持ちを大切にできる。嘘偽りなく、自分の人生を生きているとそんな自分に「誇り」が持てる。陳腐なプライドではない、本物の「誇り」を持って生きられる。誰からも称賛されなくても「誇り高き」自分を心の底から好きになれるのだ。もし、そんな自分に心から共感してくれる誰かが現れたとしたら、これ以上の幸せはないのではないか。
これは、簡単なことではない。でも、少しの意識と工夫で皆ライフワークは見つけられるはずだ。キーワードは「ストーリー性」「負の感情」「使命感」だ。これを軸に自分の人生を再構することで、他の誰でもない自分の人生が生きられると思う。



最後まで読んで下さり、ありがとうございました。