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「自分に自信がなかった人」が「自分に自信がない人」に向けて発信します。 ■就活■自分探しではなく、自分づくり■心理学/教育■おすすめ本紹介 4月から働きます。

言葉の力

・人にも自分に対しても、正直でいる
・公明正大でフェアな人であること

大学生の時、生意気ながらこのような自己の理想像、信念を掲げていた。先日の記事にも書いた「自分らしさ」にも近いかもしれない。誰に対しても迎合せず、思ったことを正直に伝える人間でありたい。他者に媚を売ったり、口だけ達者な人間にだけはなりたくないと思っていた。思ってもいないことを相手に伝えることは、不誠実だし、回りまわって自分の首を絞めることになると心のどこかで思っていたのだ。

でもそれは違った。

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「伝え方が9割」という佐々木圭一さんの著書がある。この本を読んで、自分の言葉に対する認識が変わった。同じこと、同じ提案をしても、伝え方一つで相手の印象は変わる。その具体的な方法論について書かれている。「騙された、と思って一つだけ実行してみよう」と思い立ち、一番最初に書かれていた「提案の時、相手の名前と感謝を添えてみる」ことを実践した。

もちろん、効果絶大。

「名前を呼ぶこと」と「ねぎらいや感謝の言葉を伝える」ことの威力を改めて実感した。

そして、さらに大きな学びがあった。

言葉に影響を受ける自分

「感謝しているかはわからないけど、とりあえず、感謝の気持ちを口にしておこう。誰も損はしないし」
そんな軽い気持ちで言葉を発していたが、思わぬ変化があった。

「ほんとに感謝してる。しかも、自然と人を気遣えるようになった」

それに加えて感謝を口にしたことにより、相手の笑顔を見る機会が増えた。それを見て自然と気分が良くなったりもした。まさにいいこと尽くし。


それと同時に自分を恥じた。

「正直であること」を信念とし、周りの人間を「口だけ達者」と心のどこかで見下していた自分が恥ずかしくなった。チープな自分らしさに縛られて、多くのことを失っていたことに気が付いた。

確かに、口がうまいだけの人間は魅力がない。
でも、自分の身の保身のために他者に迎合し、思ってもいない言葉を言うことと、伝え方を工夫することは違う。そこに信念や夢があるのならば、少しくらい言葉を飾ってもいいじゃないか。
言葉で人を幸せにできるのならそれは素晴らしいことだ。

それに自分が発したことに、行動が追い付こうとしたのならば、それは嘘ではない。立派な真実なんだ、と思った。


これからも、言葉の力とともに人間力を磨いていきます。


最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

「自分らしさ」よりも「自分作り」

以前「就活と本当なこと」という題名で詳しく書かせていただいたが、僕は、大学生活で自分を見失った。自分で人生を切り開いていく勇気が持てずに、就職活動を中断してしまった。自分では「一歩立ち止まって、『自分の軸』をしっかり作る必要がある。だから、一歩立ち止まるだけだ。」とそれほど深く考えていなかった。とはいえ、周りの友人からは、「就活から逃げているだけ」と思われていたみたいだ。(そもそも大学4年生になったら皆スーツを着て、就職活動をするのが普通だ、という価値観で染まっていることにも違和感だらけなのだが。。)今振り返って思うことは、自分の決断に全く後悔をしていないということ。なぜなら、たかが大学生活の数年で、「自分の軸」とか「自分らしさ」なんて決まらないことに気づけたからだ。

答えのないことに悩む経験は宝だと思う

一方で、「正解」や「答え」のないことに対峙する経験が出来て本当に良かったと思っている。大学生は、高校までの正解やあるべき姿が提示されている環境から抜け出せて、ある意味では「自由」な身になっている。その中で自分なりの「納得解」を見つけるプロセスを経験すること、つまり自分の内面と対話しながら、試行錯誤をすることで人間的に成長できると思う。芯の強い人間(体育会のマッチョ人間ではなく、思慮深く信念があるという意味)で本当の個性を持っている人になるには、「自己との対話」と試行錯誤の繰り返しの経験からしか得られないと思っている。

人との関わりで自分を作っていく

以前平田オリザさんの著書「わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何か」を読んで自分なりに思ったことがあった。
・人は周囲の人からの様々な役割や期待を受け入れ、苦しさや楽しさを同居させながら生きている。
・苦しさを感じる度に内面と向き合いながら、自分を作っていく。本当の自分はこれだ!と決めつけるのはナンセンスではないか。

冒頭で記述した気づきに戻るが、自分らしさとは丁寧に築いていくものである。そもそも、人間が「自分らしさ」を体得するためには、他者からのフィードバックが必要不可欠だ。「○○ちゃんはやさしいのね」と学校の先生に言われたり、「○○はリーダーシップあるよな」と友人に言われたりすることで初めて自覚できる。自分は○○だと思っていても、他人にそれを受け入れてもらえなければ、単なる思い込みだ。だからこそ、他者からのフィードバックによって、自分らしさは逐一修正されていくものだと思っている。それに、自分がどのように感じるかについてもインプット(自分の経験や知識、他人からの影響)によって変わってくる。インプットが変わればアウトプットも変わる。アウトプットが変わるということは、行動が変わるということだと思う。他者は行動や発言でその人らしさを判断するのだから、周りの人からの印象も変化する。

確かに高校生の自分と今の自分は感じ方も考えも全然違う。当たり前のことなんだけど、殊に「自分らしさ」となると身構えてしまう自分がいた。「変わらない何か」があると信じていたし、「変わらない自分」を曲げてはいけないと生意気にも思っていた。でも、変わっていく自分も含めた自分らしさを受け入れていったほうが、絶対に人生を楽しめると今は思っている。

最後に

これからも自分は変わっていく。振り返ってみれば長い間変わらない価値観も、もしかしたらあるかもしれない。でも結局大切なのは、変わっていく勇気と、内面と対話をして考えるような内省力だと思う。いろんな刺激を受けて、価値観を揺さぶり内省する機会を設けよう。ありきたりな結論になってしまうが、これは本質だと思う。だってそれさえあれば、逆境を乗り越えるための強い意志も育まれるのだから。


最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

文章を書いてみて気づいたこと

3月から自分の考えを言語化するために、1500~2000字くらいの文章を毎日書くようにしている。半月続けて、気づけたことがあった。

①自分は筋道を立てて考えられていない。考え散らかしている。
②発信したい意見・思いが漠然としている。抽象度が高いレベルで留まっている。
③行動レベルの実践がまだ足りないために、独自の視点・気づきが少ない。④ ③の課題解決に向けて実践をすることで②の課題が解決されていく。この2つは密接につながっている。

2週間前後の短い期間でこれほどの気づきが得られたのは、とても大きい。
4つの気づきの中で、①の気づきについては、多くの人に共通するものがあると思うので、少し掘り下げて考えてみたい。

筋道を立てて考え進めるということ

400字程度の思いつきの意見や感想はつらつらと述べることが出来る。しかし、読んでくれる人に「確かにそんな視点もあるんだな」と腹落ちするような感覚を持ってもらうレベルに至らない。似たようなことを繰り返したり、漠然とした気づきを提示しただけで終わってしまっている。
考え進め、それなりの説得力を持たせるために身近な具体例を示したり、意見を裏付けする根拠を加える。共通点がある他の分野(日常生活レベルのことや書籍で得た知識を参照して)の事象を転用する。そこまでして、やっと1500字程度のそれなりに内容がある文章が書けることに気づけた。

筋道を立ててわかりやすく伝えることが出来れば、様々な視点からクリティカルに一つのテーマを掘り下げて考えていることになる。逆にこれまでは、考えているつもりだったのだとうこと。何となく考え、曖昧さに安心をし過ごしていた。これからは、もっと合理性を追求するために筋道を立てて考えていく癖をつけていきたい。

所信表明を終えたところで、これを着実に実行するためにNext Actionを書いておきます。
・名著「考える技術・書く技術ー問題解決力を伸ばすピラミッド原則」を3月中に読破する。

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最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

次世代の職業観を証明したい

何のために働くのだろうか。

人は何のために働くのだろう。それに対する答えは人それぞれだと思う。でも、各世代によってこの問いに対する答えの傾向はかわってくるようだ。

以前、「モチベーション革命」という本を読んで、印象に残った筆者の主張がある。今の若い世代(30代前後以下)は、「人間関係」や「意味づけ」「没頭」を重要視する、というものだ。これはもちろん仕事に対する考え方にも当てはまる。経済的な面での達成や快楽への欲求よりも、自分らしさやささやかな幸せを大切にしたいという友人が僕の周りにも多い。
今回は自分らしさ(=アイデンティティ)と仕事について考えたいと思っている。

自分らしさの渇望

自分らしさの渇望」は、時代の影響が大きいのではないか、と個人的に思っている。僕たち若い世代は物質的に豊かで成熟した社会で、青年期を過ごしてきた。一方で停滞感が漂う世の中の雰囲気を肌で感じてもいた。バブル世代以前の大人が感じていた将来に対する期待感などはなく、どこかしら将来に対して不安を感じていたと思う。
会社や社会に忠実にいても、幸せは保証されない。物質的に満たされても、どこかしらに虚無感を抱えている大人を見ていると、自分にとっての本当の幸せをどうしても考えてしまう。

社会は、停滞した現状を打破する強烈な個性を求める。幻想の自分らしさを求め、自己分析をする。また、SNSの発達により、自分を表現し、印象付けたいという強迫観念に近い欲求も絶えずちらつく。

「自分は何を求めているのだろう」「自分は一体何者なのだろう」と考えることはものすごく大切だ。ただそれが、自分の主観的な視点に偏ったり、他者からの視線を気にしすぎ、自分らしさを「演出」することに終始しては意味がない。残念ながら、多くの人は「自分らしさの追求」のバランスを崩してしまっているように感じる。

なぜ、自分探しをこじらせてしまうのだろう

まず、日本社会を支えてきた大人が正しく「自分らしさ」に向き合う方法を知らない。ただひたすら、経済の発展のためにがむしゃらに働いてきた。男性はモーレツサラリーマン、女性は若くして結婚をして、子育てに専念をするという役割期待を背負った。そこには、個性もへったくれもなかったはずだ。
しかしながら社会が成熟すると、モラトリアムの時間を享受した子供たちは自分探しを始める。しかし、社会から隔離された学校という世界で過ごし、リアルな社会との接触がないと、これから果たすべき自分の「社会的な役割」を十分にイメージ出来ない
もちろん上の世代も正解を知らない。モチベーションも置かれた社会状況さえも違うのだから。だからこそ、いびつな形での自分らしさの追求が起こってしまう。ありもしない現実離れをした「理想の自己像」を求め、さまよってしまう現象はこれに起因するのではないか。
大人は自分探しを諦め、現実を受け入れる。そして、若い人に「現実は甘くない」と言い放つ。(このことに下記の記事で詳しく話しています。もしよろしければ、読んでみて下さい。)

社会が豊かになり、意味への渇望が生まれることは自然なことである。混沌とする社会経済を生き抜いていくために、若い世代は自分達なりに前を向こうとしている。しかし、自分らしさやアイデンティティは自己との対話だけで見つかるものではない。意識を高く持っている人たちは、学生の時期をうまく活用し、積極的にリアルな社会との接触を図っている。そうして、一部の若者は「本当の自分らしさ」(=自分を特徴づける強み)を活かした、理想的な職業選択をしていく。

仕事を通してアイデンティティを実感する喜び

客観的な自分の強み・弱い部分を把握して、強みを活かして社会に貢献しているという実感を持っている人は幸福感が高い。自分を特徴づける強みを活かして社会貢献している人は、人生に対する「納得度合い」が高いアイデンティティは強化され、社会に対する帰属意識・貢献意識が高まり、更に自己評価が高まるというポジティブな循環が生まれる。

しかし、社会一般の職業に対する意識はあまり変わっていないのが現状だ。だから、ぼくは、その「常識」を変えていく変化の一助となりたい。

・仕事を通じて強みを発揮することで、人とその集合体である多くの組織が自己効力感を感じている
・各人が社会とのつながりの中で自分にとっての本当の幸せを明確に持っている

そんな社会の実現に向けて自分のできることを増やしていきたいと、思いを改めました。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

強みの把握と没頭が幸せの基本だと思う

楽しかった、充実していた頃の共通点って何だろうと考えてみる。一つの有力な仮説は、
①信頼と安心を保証する人間関係があること
②自分を特徴づける「強み」を活かして、自己効力感を感じている
という条件が満たされることで、幸せと充実が保証される
、というものである。そして、この条件の先に「没頭」「熱中」があると思っている。

人は何かにものすごく集中した後に、振り返って、充実感を感じやすいようだ。それが、タスクレベルのものであっても、受験勉強などのライフイベントであっても変わらない。部活も充実感を感じる経験の一つだ。そのときは、「こんなに頑張って意味があるのか。」など考えず、脇目も降らずに打ち込んでいた。意義や意味などを追い求めなくても、幸せは実感できることの証拠だ。

「自分探し」の危険性

没頭、熱中が充実感につながるという話をした。だとすれば、「この選択で良いのか」とか「もっと他の人生もあったはずだ」などの「迷い」は目の前のことに集中することを妨げる。これは、幸福度を下げる。

理想の自分を追い求めすぎる、いわゆる過度な自分探しは、現実と理想のギャップを感じさせる。それだけでなく、意識が自分の内面に向きすぎてしまい、客観的に物事を考えることをおろそかにしてしまう。

このような時は、冷静になり自分の強みに目を向けることである。これは、自分探しとは違う。ありもしない何かを探すのではなく、備わっている「ありのままの自分」に目を向けることである。人は「ストロング・ブラインドネス」という一種のバイアスを持っている。強みというものは、自分にとっては当たり前すぎて、改めて意識できない。だから、友人から客観的な視点をもらったり、過去の実績とフィードバックを参考にして自己分析をする。
僕は、自己分析をはじめるとっかかりとして、VIA強みテストというものを行った。15分程度の複数質問に答えることで、自分らしい視点や考え方、いわゆる強みを可視化できる。

そのほか、有料だがストレングスファインダーというツールや、就職活動をする学生には人気の書籍である「絶対内定」を使用することで、自分を特徴づける「強み」を理解できるはずだ。

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強みの把握と没頭が幸せの基本だと思う

自分を特徴づける強みを理解することで、
他者に貢献をし、自己効力感を感じる→仕事・プライベートの両方で、信頼関係を構築できる→良好な人間関係の形成という好循環を手にすることが出来る。加えて、特徴づける「強み」を活かすことで「迷い」がなくなる。
余計なことを考えて、目の前のことに集中できないなんてことはない。
これで良いのだという安心感が、納得してやるべきことに没頭することをサポートするのだ。

自分にとっての幸せを追い求めすぎることにより、迷いや欠落感を生み、逆に幸福度を下げる、なんていう研究結果もあるようだ。
理由は単純。何回も繰り返すが、やるべきことへの集中を削ぐからである。

だからこそ、「足元をしっかりみて、できることからはじめようよ」ということだと思うのだ。僕自身も、そんな大切なことに遠回りをしてやっと気づけた。


これから、「答えのない人生選択」をしていく若い人達には「自分を知る」ことからはじめてもらえたらな、と思う。「自分を知ること」について「社会に飛び込み、関わりの中で把握することの大切さ」について書いたので、もしよろしければ、読んでみてください。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。


ロハスごりら

自分に自信がない人へ

人は「自分にないもの」に憧れを抱くものなんだよ、と小さい頃からよく言われた。

運動音痴は、スポーツマンに憧れる、これはわかる。
内向的な人は、明るく元気なクラスの人気者に憧れる、これもわかる。
まじめな優等生は、自由なワルに密かに憧れている、これも一応、聞いたことはある。
じゃあ、クラスの人気者は、知的なオーラを醸し出す、人見知りな人間に憧れているだろうか。

僕には、そう思えなかった。

自信がない人が生きている世界

僕は小さい頃から、自分に自信がなかった。だから、「なりたい自分像」なんかについてあれこれ考えていたのだろう。

一方で逆説的だが。根本の部分での自信のなさが自分を支えていたように感じる。ありのままの自分が受け入れられないから、評価されるために、頑張る。もちろん、心は消耗する。頑張っても自分の成長に目を向けてあげるのではなく、他人からどう見られているのかを気にする。だから、心が落ち着かない。褒められたときだけ、ほっとするのである。
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そうやって生きていると、評価され(そうな)分野にしか挑戦しない。好きなものや関心のあることにチャレンジができない。失敗が怖いから。そうやって、少しずつ自分の感情を殺していたことに気づいた。
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周りからみれば、「頑張れるヤツ」という評価かもしれない。でも、本人の奥底には、何とも言えない漠然とした不安感があると思うのだ。どうあがいても、どんなに頑張っても満足できない。ある意味地獄のような状況である。

でも、それは「最悪」の状態では無いんだ、と思う。なぜなら、無力感にさいなまれてはいない。たとえ満たされなくても自分の可能性を追求している。
つまり、自分は変われる、と知っているということだ。何者にでもなれるということだ。それは、冒頭の「ないものねだり症候群」の人には朗報だろう。

変われるんだ、という安心感

いつでも自分は変われるんだ、という認識は安心感につながる。安心感は自己受容につながる。自分を受け入れられるということは、自分を好きになれるということだと思う。少しずつ自分は変わってきたし、きっとこれからも変わっていけるというニュートラルな自己評価を大切にしよう。他者の評価より内面の変化と成長を重視できるようになれば、もう以前のような「自信のない自分」とは、違っているはず。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

ロハスごりら

僕が思う「カッコイイ大人」

サウジアラビアの友人に聞かれた一言がいまだに忘れられない。
「お前は、なんでここ(イギリス)に来たんだ?何のために英語を学んでいるんだ?」

僕は、答えることが出来なかった。とりあえず、留学をしに来ている自分が本当に嫌いだった。そのことがものすごくコンプレックスでもあった。

 

一番大切だと思うこと

当時の僕は、「目的意識」という言葉に敏感に反応していたと思う。日本で一番「目的意識」という言葉が嫌いだったと思う。理由は単純。目的がない自分がコンプレックスだったから。

自分と向き合うこと、自分を掘り下げること。

そーゆー大切なことを、多くの日本人はあまりしないで社会人になってしまう。

とりあえず、大学に行き、とりあえず、就職をする。

僕は、深く疑問を持たず、大学に進学をした。勉強は頑張ったが、進学以外の選択肢を考えなかった。大学へ行ったら、「夢」は見つかるものだと何となく思っていた。そのような流れで、「なんとなく留学した」のだった。

僕の周りにいた外国人は、皆、目的意識を持っていた。
エンジニアになるという人もいれば、具体的に
「俺は、国に帰って歯科衛生士になる。今は、そのためにここで修士号を取るんだ」
と、声高に主張するこれまたサウジアラビアの友人もいた。

何となく生きるのはやめよう

そのような経緯があって、ものすごく「目的」とか「目標」というものにこだわるようになってしまった。
「好き」や「得意」を仕事にしよう!とは思わない。それはものすごく覚悟がいることだと思うから。

でも、しっかりと自分を掘り下げることはできるのではないか?
留学での収穫は、意志を持つ人生への憧れを確実なものにしてくれたことである。どんな道に進んでも、自分の人生の意義をはっきりと言葉にできる大人でいたい。それが、カッコイイ大人だと思う。

 

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

ロハスごりら